東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 2018年度週報
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2019/03/31

たった一人の罪人を捜し求めて


あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。(ルカ15:7 

 「一人の罪人」という表現が目に留まります。たくさんいるから「一人ぐらい、いいのでは?」という考え方ではないことに気づかされます。キリストは失われた人を捜して救うために来られたとご自身の目的をはっきりさせていますが、「捜して救う」というところに神の人に対する積極的なご介入の姿勢がにじみ出ています。それほどに神は人を愛しておられ、誰ひとり滅びることを望んでおられないのです。むしろ、その一人のために大きな犠牲を払い、捜して救い出すならば、そこにはこれ以上ないほどの喜びが天にあるということをキリストは教えられたのです。「天にある」とは、世界中の誰よりも天の父なる神がまず喜んでくださるということに他なりません。どうか、迷子のようにさまようひとりひとりが、羊飼いのもとに立ち返り、安心して過ごせますように。そのために私たちキリスト者は祈り続け、キリストのご愛をお伝えしていきたいと願います。神は他の誰でもない、あなたを捜し求めておられます。キリストはあなたを招いておられるのです。

(2019年3月31日 週報掲載)

2019/03/24

キリストの弟子として

 わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。(ルカ14:26  

 イエス・キリストのことばの中でも最も厳しいおことばの一つではないでしょうか。自分の身内、そして自分のいのちさえ憎む覚悟がないなら、キリストの弟子となることはできないという教えです。しかし、その真意を知る時に、むしろキリストの深いご愛に触れることになります。イエスの周りには大勢の群衆がついて来て、世的な期待に胸をふくらませていました。そんな群衆に対してイエスは言われたのです。「わたしの弟子になることは、甘い話ばかりではない。時には自分の家族、親しい人から憎まれたり、批判されたり、反対されたりすることがあるのだと。それでもわたしを愛するか?」と問いかけられているのです。この問いに応答してキリストを愛し続けるからこそ、それを見た人々はキリストは本物だと知るのです。実は、身内や自分のいのちを憎むとは、憎むことを教えているのではなく、キリストを第一とするという教えであり、自己愛から解放される道なのです。反対されてもなお、キリストに従う時に、結果として人々を神の救いにお招きする近道となっていくのです。

(2019年3月24日 週報掲載)

2019/03/17

すべてを神の栄光のために

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。 (Ⅰコリ10:31)  

 キリストを信じる者には自由があります。聖書の教えは人を束縛するものではなく、人を罪とサタンの支配から自由にし、正しい良いと思えることのために自分をささげることができるようにするものなのです。「真理はあなたがたを自由にします」とキリストが言われたように、真理を知ると自分がどういう支配の中にいたかがわかり、何が自由で何が不自由なのかも知る者とされます。そして自由を有意義に用いて、自身もイキイキとしていける道とは、神の栄光と他の人の益を求めて生きることですです。自分のために使う自由は思ったほど豊かではありません。かえってむなしさが残るものです。子どもたちが自分に与えられたお小遣いの多くを、意外にも家族や友人のために使っている姿を見て微笑ましく思います。そして教会にいる時だけが恵みの時でもありません。聖俗分離ではなく、私たちが遣わされているところすべてが、神の働かれる場となることを覚え、みことばを握りしめて毎日を歩みたいものです。神はあなたのいるところどこにでもおられ、あなたを通してその場を祝福したいと願っておられるのです。

(2019年3月17日 週報掲載)

2019/03/10

神の御前に、私は何者か

このように自ら進んで献げる力を持っているとしても、私は何者なのでしょう、私の民は何者なのでしょう。すべてはあなたから出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたに献げたにすぎません。(Ⅰ歴代誌29:14)  

 多くの奉仕をなしたり、多くの犠牲的なささげものをしたりするときに、私たちはしばしば高慢のワナにかかることがあります。「自分はこんなにやっている」という感覚は、次のような思いへと発展しやすいのです。ある人は、こんなにやっている自分は非常に立派であると考え、神への感謝、人々への感謝を見失います。ある人は、こんなにやっているのに十分な評価がないと考え、不平不満を募らせます。しかし、ダビデ王のこの祈りは、神の前に自分が何者であるかを問われるものです。彼の祈りに教えられることは、献げることができた自分を誇るのではなく、献げられるように与えてくださった神に感謝し、神を賛美するすばらしさです。人がほめてくださる時に、建前ではなく心から「いいえ、私ではなく主がしてくださったことです」と告白できる者とされたいのです。何かが思った以上にできた時にも「主にある兄弟姉妹の祈りのおかげ、祈りを聞かれた主のみわざです」と実感を込めて言える者となりたいのです。

(2019年3月10日 週報掲載)

2019/03/03

自ら進んで、全き心をもって

民は、長たちが自ら進んで献げたことを喜んだ。彼らが全き心をもって、自ら進んで主に献げたからである。ダビデ王も大いに喜んだ。 (Ⅰ歴代誌29:9)  

 喜びにあふれているイスラエルの民の姿がここにあります。それは祈り求めていたものが与えられた喜びではありません。病がいやされた喜びや何かを完成させた喜びでもありません。それは「献げる」喜びでした。喜びの理由は何でしょうか。第一に、主のために、主の宮のために「献げられた」という喜びです。むなしく消え去るもののためでなく、永遠の神の栄光のために財を献げた喜びです。第二に、嫌々ではなく「自分から進んで」、しかも心からの平安のうちに「全き心をもって」献げられた喜びです。強いられてではなく、騙されてでもなく、虚栄心からでもなく、ただ主のために自分の意志で進んで献げたゆえに喜びがあふれているのです。心を献げた喜びです。第三に、個人的な喜びではなく、他の人々が主を信頼して喜んで献げているのを見て喜んだというともに献げた喜びです。共同体としての喜びであり、一人二人では不可能なことでも、主に導かれともに献げ合っていくとき豊かにされます。新会堂建設の中で私たちは今、現にその喜びをともに味わっているのです。

(2019年3月3日 週報掲載)

2019/02/24

多様性を喜び、協力してともに成長する

 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。
 (エペソ4:16)  

 人は自分と異質な存在を受け入れることが難しく、しばしば正反対の人とは対立したり、排除したりしがちです。しかし、神は人をそのような多様性のある存在として造られたのです。人間のからだも異なる多様な器官の協力、連携で成り立っています。ボールひとつ投げる動作でさえ、体のあらゆる部位が一連の動作に協力し、同じ目的に向かって動き、その時にまっすぐに質の高いボールを投げることができます。キリストの教会は異なる賜物を与えられた者たちの個性豊かな集まりです。違うことを嘆いたり、否定したりするのではなく、その多様性こそが神が備えられた豊かさであることをともに喜び、感謝しましょう。そして、それぞれが他人任せではなく、自分に与えられた使命に忠実に歩む時に、成長して愛のうちに建てられるのがキリストのからだなのです。多様性を楽しみ、異なるからこそ助け合える関係を感謝し、愛のうちに協力していくこと。そうして、キリストの教会が建て上がっていくことが神のみこころなのです。

(2019年2月24日 週報掲載)

2019/02/17

御霊による一致とは?

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4:2-3)

 教会は背景、性別、世代、民族の異なる者たちが集まる場です。考え方も価値観も違う者たちが集められています。一方会社組織は同じ目的、同じ利益に賛同する者が入社しますし、サークルや部活動なども同じ趣味やスポーツという共通点で集まっています。そう考えると教会ほど多様性のある集まりは他にはなく、それでいて「一致」を目指すということは、不可能に限りなく近いと言わざるを得ません。では、聖書は不可能なことを指示しているということなのでしょうか。そうではありません。人の力では不可能だからこそ、神の力(御霊の力)によって一致するようにと教えているのです。それは、考えが同じになることではなく、意見が一つになることではなく、あり得ないほど異なる者たちが、ただキリストの御名があがめられるために、神の栄光が現れるために、自身の握っているものさえ後にして、喜んでささげ合う時に、不思議な一致をもたらしていくということです。細かな枝葉末節のことに終始する議論は一致を妨げ、大切なキリストを第一としていくときに一致が生まれるのです。

(2019年2月17日 週報掲載)

2019/02/10

償いの意義

人が畑あるいはぶどう畑で家畜に牧草を食べさせるとき、 放った家畜が他人の畑を食い荒らした場合、 その人は自分の畑の最良の物と、 ぶどう畑の最良の物をもって償いをしなければならない。 (出エジ22:5)  

 「償い(つぐない)」とは、何のためにあるのでしょうか。一つは、ある人の行為によって、物理的、精神的ダメージを受けた人が、その受けた損害を取り戻すためにあると言えます。神はこうして互いに安心して過ごせるように教えておられます。二つ目として、罪や迷惑行為を行った本人が、神の前に悔い改めるだけでなく、償ってやり直していくため、相手との関係を回復するために重要なのです。本人が自分で責任を取り、痛みを通って償いをすることに意味があります。自分がなした行為について、結果を刈り取る経験をしなければ、人は成長できず過ちを繰り返してしまうからです。ここでは「最良の物」で償うとあり、より良いもので返すことを主が教えています。人間同士の関係をも正しく築けるようにとの神のご配慮がここにあります。これらの事から、本来人が神に与えたダメージからすれば、大きな償いが必要だとも気づきます。神に償い切れない私たちのために、キリストのいのちが注がれたことに心より感謝します。

(2019年2月10日 週報掲載)

2019/02/03

いのちにはいのちを

しかし、重大な傷害があれば、いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。(出エジ21:23-25)  

 この教えは有名で「目には目を、歯に歯を」と略して語られることがあります。ただ、その意味を誤解されていることが多いように思います。ハムラビ法典にも似た教えがありますが、全体の文脈、本質ともに異なっており一緒にすることはできません。さて、この教えにはどのような神の意図があるのでしょうか。第一に、失われたものの尊さは、同じものを失って初めてわかるという事です。償いは同じ犠牲でと教えることで人命、身体の大切さを教える規定なのです。第二に、倍返しの復讐をさせず、正式な裁判にて刑罰の重さを制限する教え(上限を設定する教え)でありました。それを超えて刑罰を与えてはならず、公平性を保つ意味があったのです。こうした考え方が現代の法の土台にもあります。あらかじめ定められていない刑を執行してはならないという「罪刑法定主義」という刑法の基本原則に影響を与えていると言えるでしょう。神様の公平性、復讐を良しとしないお考え、傷つけられた者への思いやり、それらすべてが配慮されています。

(2019年2月3日 週報掲載)

2019/01/27

神の国への関心

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」(ルカ14:15) 

 神の国で食事ができる人は幸せだと誰もが想像するかも知れません。しかし、想像するだけ、あるいは願っているだけで、実際に神の国を熱心に求める人は多くありませんでした。神の子イエスが父から遣わされ、救いの道を説き明かし、神の国へと招いているのに、多くの人は自分の国、すなわち自分の利益に関係することしか興味がありませんでした。少しも緊急性のない自己都合を優先し、神の国とその義を切に求めることができなかったのです。私たちは何を問われているのでしょうか。現代人は忙しすぎると言えます。しかし、何に忙しすぎるのでしょうか。それらはどうしても必要なことでしょうか。今すぐしなければならない緊急性のあるものでしょうか。主イエスのたとえ話に出てくる3人の言い訳は、どれも緊急性がなく、自己愛に根ざしたものでありました。今すぐにでも求め、大切にすべきものは人の魂の救いのこと、神の国のことです。キリストを知らずして生涯を終えるなら、救いの道を提示することがもはやできないからです。永遠に残る神の国のためにあなたをささげませんか。

(2019年1月27日 週報掲載)

2019/01/20

キリスト者の誇り、キリスト者の喜び

その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。 (ルカ14:14) 

私たちは何をするにも見返りを期待し、損得勘定の中にいることが多いと思います。むしろ、純粋な愛の動機から見返りを期待せぬわざをなすことは稀ではないでしょうか。しかし、見返りを期待せぬ愛のわざこそキリストのみわざであり、その弟子であるキリスト者が喜んで励んでいくべきものでしょう。誰も見ていないところでの忠実な歩み、お返しを受けない愛のわざ。人のほめ言葉がなくてもこれを続けることこそ「キリスト者の誇り」、「キリスト者の喜び」です。ですから主は言われました。お返しができない人こそ食事に招きなさいと。そうする時、あなたがたは幸いなのだと教えられたのです。なぜ、幸いなのでしょうか。それはキリストを信じて義とされた者が、永遠の御国のために復活する時、神の豊かな報いがそれぞれの行いに応じて与えられるからです。人からの見返りと神からの報い。どちらが永続するものでしょうか。私たちが目に見える地上の利益を追い求める時、永遠の恵みからは遠ざかります。しかし、愛の道に生きることを選んでいく時、永遠の恵みが神によって備えられるのです。

(2019年1月20日 週報掲載)

2019/01/13

社会的弱者の保護

あなたがヘブル人の男奴隷を買う場合、その人は六年間仕えなければならない。しかし七年目には自由の身として無償で去ることができる。(出エジ21:2) 

 当時の社会では奴隷(しもべ、召使い)を持つことは、一般的なことでした。その中でも神の民イスラエルにおいては、他のどんな民族よりも奴隷に対する保護が手厚く、丁重に扱うことが教えられていたのです。私たちは悪しき奴隷制度については全面否定しますが、当時の奴隷制度が弱者の生活保護の役目をも担っていたことを覚える時、そこには一定の意義があったことと認めるべきでしょう。ここにあるように、男性の奴隷は7年目には自由を得ることが定められていましたし、女性の奴隷の場合には、主人に安易に捨てられて、ひどい扱いをされることがないよう細やかな配慮のもとで保護する道を教えていました。男性の身勝手なふるまいを抑制し、社会的弱者である女性を守る意味があったのです。このような弱い者への配慮は、旧約時代から細かく教えられ、キリストにおいてこれらはより整理されて説き明かされています。私たち現代に生きるキリスト者もまた、弱者に対する愛の配慮を決して忘れてはなりません。神のみ教えはどこまでも細やかで、親切な愛に満ちているのです。

(2019年1月13日 週報掲載)

2019/01/06

新しい力は上から・・・

新しい力は上から・・・

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。(イザヤ40:31) 

しばしば年配の方が若者に向かって、「若いから大丈夫でしょう」と言われるのを耳にします。

確かに、若いゆえにできる無理もあります。

しかし、前節の30節には「若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。」と語られています。どんなに若くて力に満ちているように見えても、「疲れて力尽きる」ものであり、「つまずき倒れる」ことがあるのです。これが人の力の限界です。

しかし、たとえ年老いていたとしても、主を待ち望む者は新しく力を得ることができるのです。

それは、鷲が大きな翼を広げて、高速で飛翔し空高く舞うことができる姿に似ています。バタバタと羽ばたかせて頑張るのではなく、主が吹かせてくださる上昇気流に身をゆだね、悠々と飛ぶことができるのです。

その人こそ、走っても力衰えることなく、歩き続けても疲れ果てることがないのです。
新しい翼をくださり、空高く優雅に飛翔する鷹のように、私たちも新しい年に主の上からの力をいただいて、疲れ知らずに舞い上がりましょう。

(2019年1月6日 週報掲載)

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